牧野 信一

夏ちかきころ

一

あいつの本箱には、黒い背中を縦に此方向きにした何十冊とも数知れない学生時代のノート・ブツクが未だに、何年も前から麗々と詰つてゐる。――尤も扉には必ず鍵がかゝつてゐるが、硝子が曇りでないから、中の書籍は一際見えるのであつた。珍らしいものは持つてゐないが殊の他の蔵書家で、書斎に続いた小さな納戸は殆んど書庫のかたちを呈してゐた。

どうしてあんなノート・ブツクなどを、そんな風にならべて置くのか自分には彼の了見が解らなかつた。彼は、都の大学では理学を専攻したと、吾家の者や近隣の知人に吹聴してゐると云つてゐたが、当時の彼の生活は自分も知らないので、そして彼の時々の口調から察しても月や星のことなどには割合に精通してゐるらしいので自分も、さう思つてゐた。彼は、哲学などにも多少の興味を持つてゐるらしく、話材がなくなると勿体振つた口調で昔の学者の名前をあげては色々な場合にそれらの所説を引用して、六ヶし気に眉をよせるのが癖だつた。――それで、それらのノート・ブツクの背中には、何れも白い絵具で、何々博士天文学講義とか、何某教授ギリシア哲学史とか、卒業論文「ヴント心理学の研究」とか……様々な科目の表題が、太く叮嚀な文字で誌してあつた。

書籍ならば好いが、そんな筆記帳などをいつまでもそんな風に飾りたてゝおくことに自分は、自分にはそんなものは一切無かつたからさういふものに対する他人の保存癖も解らないわけだが、何だか妙な気がしたので一度彼に訊ねたら、彼はムツとして、

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