牧野 信一
お蝶の訪れ
一
いま時分に、まだ花のあるところなんてあるのかしら? ――はじめて来た方角には違ひないのだが、案外だ! この様子を見ると何処か途中にでも花見の場所があるのらしいが、どうも妙だ!
何処の花だつて、もうとうに散つてゐる筈だが――花見と云つても、あの時のは芝居見物のことだつたが、あれに誘はれたのはやがてもう一ト月も前になるぢやないか! あの頃が、それでも田舎よりはいくらか遅い東京のお花見季だつた筈だ……と思ふんだが、さうでもなかつたのかな! あの時もあの連中と一緒に出かけてついでに此方に廻らうかとも思つたのだが、何といふわけもなしにお花見季といふことに遠慮でもしたい気! 遠慮でもないが、何だか臆劫な……かしら? まあ、お花見季が過ぎてから――といふつもりで、今日にしたのだつた。
それだのにこの電車の有様といつたらない、往きなのか帰りなのかも知らないが、皆なお花見の連中ばかりだ、何処に今ごろ咲いてゐる花があるのかな?