牧野 信一

「悪」の同意語

一

小田原から静岡へ去つて、そこで雛妓のお光とたつた二人だけで小さな芸妓屋を始めたといふ話のお蝶を訪ねよう――さう思ふことゝ、米国ボストンのFに、最近の自分の消息を知らせなければならないこと――。

この二つのことだけは、近頃彼が、自ら例へて冬籠りの地虫の心になつてゐる因循な頭に、いくらかの積極性を与へた。母や清親などゝ野蛮な争ひをした揚句、その儘周子と三歳の英一を伴れて東京へ来てしまつた彼だつた。

だが彼は、父が生きてゐた頃も母とは幾度も争ひはしたことがあるので、今度だつてそんなことでは憂鬱を感ずるどころではなかつた。母などとは、あんな騒ぎは忘れた顔をして、顔もあからめずに会へる気がした。苦い発作的の感情に、一時はカツとして向ツ肚をたてるが、根が安価な心の持主である彼だつたから、一瞬時後には呆然たる魚のやうにピツカリと洞ろな眼を挙げてゐるばかりだつた。恬淡ではない、狡くて、光りを知らない痴呆性に富んだ男に違ひないのだ。

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