岡本 綺堂

放し鰻

E君は語る。

本所相生町の裏店に住む平吉は、物に追われるように息を切って駈けて来た。かれは両国の橋番の小屋へ駈け込んで、かねて見識り越しの橋番のおやじを呼んで、水を一杯くれと言った。

「どうしなすった。喧嘩でもしなすったかね。」と、橋番の老爺はそこにある水桶の水を汲んでやりながら、少しく眉をひそめて訊いた。

平吉はそれにも答えないで、おやじの手から竹柄杓を引ったくるようにして、ひと息にぐっと飲んだ。そうして、自分の駈けて来た方角を狐のように幾たびか見まわしているのを、橋番のおやじは呆気に取られたようにながめていた。文政末年の秋の日ももう午に近づいて、広小路の青物市の呼び声がやがて見世物やおででこ芝居の鳴物に変ろうとする頃で、昼ながらどことなく冷たいような秋風が番小屋の軒の柳を軽くなびかせていた。

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