岡本 かの子
愛よ愛
この人のうえをおもうときにおもわず力が入る。この人とのくらしに必要なわずらわしき日常生活もいやな交際も覚束なきままにやってのけようとおもう。この人のためにはすこしの恥は涙を隠しても忍ぼうとおもう。
朝夕見なれしこの人、朝夕なにかしら眼新らしきものをその上に見出すこの人。世間ではこの人をおとなのなかのおとなのようにいう。けれどもわたしにはこどもに見える。というわたしをこの人はまだこどものように見てなにかと覚束ながる。互に眼を瞠目って、よくぞこのうき世の荒浪に堪うるよと思う。
おいおいたがいに無口になって、ときには無口の一日が過される。けれども心のつながりの無い一日では無い。この人が眼で見よと知らする庭の初雪。この人が耳かたむける軒の雀にこのわたしも――。
むかし、いくたりの青年が、この人に競い負けてわたしのまわりから姿を消したことであろう。おもえば相当に、罪を担うて居るこの人である。けれどもこの人の、いまの静けさに憎みを返す人があろうか。この人のわたしを庇い通した永い年月を他所ながら眺めてその人達も恨をおさめて居るに相違あるまい。もういくたりの児の父となって。もし逢ってもその人達はこの人になつかしく差出す手を用意して居るに相違ない。そういえばわたしとてよくもこの人を庇い通した――おもえば氷を水に溶く幾年月。その年月に涙がこぼれる。