坂口 安吾
海の霧
1
波の上に夜が落ちる。海に沿ふた甃の路に靄の深い街燈の薄明り、夜の暗色と一緒に、噎つぽい磯の匂ひが、急にモヤモヤした液体のやうに、灯のある周囲に浮きながら流れはじめる。ときどき、外国の船員が、影と言葉を置き去りにして、闇の中へ沈没しながら紛れてしまふ。
黄昏が下りると、僕はこの路で、自分でも良くは知らない何か思案を反芻しながら、一日に一ぺんづつ家路を辿つた。鮎子も一ぺん家へ帰る。どの路をどんな顔貌で通つて来るのだか、駈けて来たやうに、いつも騒しく興奮してゐた。白ちやけた電燈の下で僕達の影が縺れ、興醒めた白さが縺れ、くたびれた神経の罅が、虚しい部屋の中で丁度氷の湯気のやうに、一つの柔らかい靄を殆んど幽かに醸しはじめる。僕は冷い水溜り、黙りこくつて片隅の机に頬杖をつきながら、街の灯に薄く紅紅と映えてゐる潤んだ夜空に眺め入り、又その奥に何か震へる明日の心を探しはじめる、今日も畢れり、と思ひながら……。
「指が痛むわ、治してよ。アア痛痛……ほんとだぜ、キミ」