坂口 安吾
山麓
あの頃私は疲れてゐた。遠い山麓の信夫の家で疲れた古い手を眺めてゐた、あの頃。
山麓の一人の女、信夫の奥さんと顔をあはせる。さうすると、ひつそりした山麓の空気が私の鼻先の部分だけ小さくびる/\と震え、そこに出来た小つちやな真空の中へ冷めたい花粉が溢れてきて、空気の隙間をとほり、私の耳の周りをもや/\して、こまつちやくれた秋風となつて、私の額へ癇癪と考へ深い皺を刻み消え失せていつてしまふ。私は自分の疲れを掌へ載せてみて、当惑した顔を顰め、重さのない爽やかな日が再び私にあるのかと思ひつゞけた。
信夫には健康とアイヌ族の鼻髭があつた。
信夫は毎日狩猟に行く。鉛色の鈍い重たい空。エアデルをつれて終日ひえびえとした白樺の林を通り、時折はしばたゝく時雨に濡れて、信夫は終日ひそひそと濡れた空気の隙間を歩いてくるらしい。荒涼たる白樺の林を濡れた鼻髭が静かに通つてゐるらしい。信夫は獲物をとつてきた例がなかつた。