坂口 安吾

山の貴婦人

上州、信濃、越後、丁度三国の国境のあたりに客の希な温泉がある。私の泊つた宿には、県知事閣下御腰懸けのイスといふのが大切に保存されてゐて、村の共同湯に出没する人々にはドブチンスキーやボブチンスキーの面影があつた。近い停車場へも十数里の距離があつて、東京の客なぞ登山の季節にも滅多に来ない。単調で奇も変もない山国の風趣が気にいつて、私は暫く泊ることにした。

ある日、宿の亭主がもみ手をしながらはいつてきたが、

「わし共は田舎者のことで、はや一向何事も存じませんが……」

亭主は臆病な眼付で私を見凝めて口籠つてゐた。

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