坂口 安吾

茶番に寄せて

日本には傑れた道化芝居が殆んど公演されたためしがない。文学の方でも、井伏鱒二といふ特異な名作家が存在はするが、一般に、批評家も作家も、編輯者も読者も厳粛で、笑ふことを好まぬといふ風がある。

僕はさきごろ文体編輯の北原武夫から、思ひきつた戯作を書いてみないかといふ提案を受けた。かねて僕は戯作を愛し、落語であれ漫才であれ、インチキ・レビュウの脚本であれ、頼まれれば、白昼も芸術として堂々通用のできるものを書いてみせると大言壮語してゐたことがあるものだから、紙面をさいてくれる気持になつたのである。北原の意は有難いが、読者がそこまでついてきてくれるかどうかは疑はしい。けれども僕は、そのうち、思ひきつた戯作を書いて、読者に見参するつもりである。

笑ひは不合理を母胎にする。笑ひの豪華さも、その不合理とか無意味のうちにあるのであらう。ところが何事も合理化せずにゐられぬ人々が存在して、笑ひも亦合理的でなければならぬと考へる。無意味なものにゲラ/\笑つて愉しむことができないのである。さうして、喜劇には諷刺がなければならないといふ考へをもつ。

然し、諷刺は、笑ひの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺する人の優越がある限り、諷刺の足場はいつも危く、その正体は貧困だ。諷刺は、諷刺される物と対等以上であり得ないが、それが揶揄といふ正当ならぬ方法を用ひ、すでに自ら不当に高く構へこんでゐる点で、物言はぬ諷刺の対象がいつも勝を占めてゐる。

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