豊島 与志雄
湖水と彼等
もう長い間の旅である――と、またもふと彼女は思う、四十年の過去をふり返って見ると茫として眼がかすむ。
顔を上げれば、向うまで深く湛えた湖水の面と青く研ぎ澄された空との間に、大きい銀杏の木が淋しく頼り無い郷愁を誘っている。知らない間に一日一日と黄色い葉が散ってゆく、そして今では最早なかば裸の姿も見せている。霜に痛んだ葉の数が次第に少くなることは、やがてこの湖畔の茶店を訪れる旅の客が少くなることであった。
冷かな秋の日の午後、とりとめもなく彼女が斯ういう思いに耽っている時、一人の青年が来て水際に出した腰掛の上に休んだ。
茶と菓子とを運んだ婢に昼食のあと片付けを云いつけて、彼女はまた漠然たる思いの影を追った。遠くより来る哀悠が湖水の面にひたひたと漣を立てている。で側の小さい聖書をとり上げてみた。見るともなしにちらと眼をやると、青年はじっと湖水の面を見つめている。