久生 十蘭
白雪姫
一
ある夏、阿曽祐吉という男が、新婚匆々の細君を携帯して、アルプスのシャモニーへ煙霞の旅としゃれたのはよかったが、合※(「丞/犯のつくり」、第4水準2-3-54)の夢もまだ浅い新妻が、ネヴェという質のわるい濡れ雪を踏みそくなって、底知れぬ氷河の割目に嚥みこまれてしまった。
それはモン・ブランの麓、アルジャンティエールから六時間ほどのぼったところにあるラ・トゥルという危険な氷河で、マァヘッドのアルプス案内記にも、ガイドを要すと特に注意しているのに、阿曽はホテルからザイルとピッケルを借りただけで、案内も連れずに出かけたのである。
阿曽がシャモニーからアルジャンティエールのグラッソンネというホテルへ移ってきたのは、八月ももう末で、山の天候が変りやすい時季だった。その頃になると、雪質が一時間ごとに変化するといわれるくらいだが、そのうえ、四時近くになると、霧が出て山の形相を一変させてしまう。行きにあったボン(氷河の割目にかかった雪の橋)が跡形もなくなり、立往生してまごついているうちに、凍って霧に巻かれて遭難するというような椿事がよく起こる。