久生 十蘭
ひどい煙
一
飯倉の西にあたる麻布勝手ヶ原は、太田道灌が江戸から兵を出すとき、いつもここで武者揃えをしたよし、風土記に見えている。大猷院殿の寛永の末ごろは、草ばかり蓬々とした、うらさびしい場所で、赤羽の辻、心光院の近くまで小山田がつづき、三田の切通し寄り、菱や河骨にとじられた南下りの沼のまわりに、萱葺きの農家がチラホラ見えるほか、眼をさえぎるほどのものもないので、広漠たる原野のおもむきになっていた。
六月はじめのある日、この原にオランダ人献上の大臼砲を据えようというので、御鉄砲御用衆といわれる躑躅の間詰のお歴々が、朝がけから、露もしとどな夏草を踏みしだき、間竿を持った組下を追いまわして、射場の地取りをしていた。
和流砲術の大家、井上外記正継、稲富喜太夫直賢、田付四郎兵衛景利の三人が鼎のかたちになって床几に掛け、右往左往する組下の働きぶりを監察していた。