久生 十蘭
青髯二百八十三人の妻
一
前大戦が終った翌年、まだ冬のままの二月のはじめ、パリの山手のレストランで働いているジャンヌ・ラコストという娘が、この十カ月以来、消息不明になっている姉のマダム・ビュイッソンの所在をたずねていた。スペインの国境に近いビアリッツにいる姉の一人息子が失明したという通知があったので、大急ぎで知らせなければならないと思ったのである。
心あたりというほどのものはなかったが、前年の夏、休戦の二カ月ほど前、偶然、あるキャフェで姉と落ちあったとき、アンリ四世のような見事な顎髯をはやした五十二三の紳士に紹介されたことがあったので、もしやと思って、そのほうをさがして見る気になった。その紳士はたしかアンドレ・シャルクロァといい、ヴェルサィユ市の南のガムベェという村に別荘があるというようなことを聞いた記憶がある。
それで、とりあえずガムベェの村長に宛てて照会の手紙を出すと、折返して返事があった。そういう名の人物は居住していないが、手紙の趣にある風采と齢恰好からおすと、三年前からトゥリック氏所有の別荘「エルミタージュ」を借りているラウール・デュポンのまちがいではないか。猶、ラウール・デュポンは去年の暮に来たきり、その後、一度もやって来ないと書いてあった。