高村 光太郎
ヒウザン会とパンの会
私が永年の欧洲留学を終えて帰朝したのは、たしか一九一〇年であった。
当時、わが洋画界は白馬会の全盛時代であって、白馬会に非ざるものは人に非ずの概があった。しかし、旧套墨守のそうしたアカデミックな風潮に対抗して、当時徐々に新気運は動きつつあった。その頃、有島生馬、南薫造の諸氏も欧洲から帰朝したばかりで烈々たる革新の意気に燃えていた。
私が神田の小川町に琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)洞と言うギャラリーを開いたのもその頃のことで、家賃は三十円位、緑色の鮮かな壁紙を貼り、洋画や彫刻や工芸品を陳列したのであるが、一種の権威を持って、陳列品は総て私の見識によって充分に吟味したもののみであった。
店番は私の弟に任し切りであったが、店で一番よく売れたのは、当時の文壇、画壇諸名家の短冊で、一枚一円で飛ぶような売れ行きであった。これは総て私たちの飲み代となった。