江見 水蔭
備前天一坊
一
徳川八代の将軍吉宗の時代(享保十四年)その落胤と名乗って源氏坊天一が出た。世上過ってこれを大岡捌きの中に編入しているのは、素より取るに足らぬけれど、それよりもズッと前、七十余年も遡って万治三年の頃に備前の太守池田新太郎少将光政の落胤と名乗って、岡山の城下へ乗込んだ浪人の一組があった。この方が落胤騒動としては先口で、云って見れば天一坊の元祖に当る訳。
大名の内幕は随分ダラケたもので、侍女下婢に馴染んでは幾人も子を産ませる。そんな事は決して珍らしくはなかったので、又この時代としては、血統相続という問題の為に、或は結婚政略の便宜の為に、子供は多い程結構なので、強ち現今の倫理道徳を以て標準とすべきでは無いのであるが、しかし、なんにしても国守大名が私生児の濫造という事は、決して感心した事件ではないのである。
ところが、問題の人が明君の誉高き池田新太郎少将光政で、徳川家康の外孫の格。将軍家に取っては甚だ煙ッたい人。夙に聖賢の道に志ざし、常に文武の教に励み、熊沢蕃山その他を顧問にして、藩政の改革に努め、淫祠を毀ち、学黌を設け、領内にて遊女稼業まかりならぬ。芝居興行禁制とまで、堅く出ていた人格者。それに秘密の御落胤というのであるから、初めてこの物語が生きるのである。