佐藤 惣之助
釣れない時
フイロソフイストは、「人は考へる為めに生れて来た」といふが、われわれフアンテエジストは、「人は空想する為めに生れて来た」と云つてもよい程、用もない時は空想ばかり駛らせてゐる。殊に一個の文章を書かうとする前、一つの考案を纏める前、さういふ時には、この空想の加速度によつて、多くその文章が破棄されることすらある。従つてその空想の奔馬は自在に荒れ狂つて、遂には果てしもない無有郷へ行くか現実をどうどうめぐりして、そのまま没落してしまふ。
釣りに行つて、イザ釣らうとする時、又竿をのべてアタリを待つ時、潮の調子の悪い時、月の明るい時、遥かな港や村をふりかへる時、同じやうに空想の奔馬は天を馳り地を潜る。そしてよく現実がお留守になつて、太公望的期待の心境に陥るか、又はロビンソー・クルーソー式の感情に偏することがある。(釣りに行つては決して現実的の事は断片的にしか考へられない。又考へてゐたら決して釣れないのがふしぎである。)例へば、
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岩魚、ヤマメ、鮎に行つた場合に就いて。鳥、魚、昆虫にも、各自の生層を通じて、自在に会話の出来る瞬間といふものが、有るのではないか。