北条 民雄

月日

一歩一歩注意深く足を踏みしめて、野村は歩いた。もう二年間も埃芥にまみれて下駄箱の底に埋もれてゐた靴であつたが、街路を踏みつける度に立てる音は、以前と変りのないものであつた。電車、自動車、馬車、その他凡ての都会の音響が、盛り上り、空間を包んで野村にぶつかつて来たが、靴音はやはり足の裏で小さく呟いて、彼の体を伝つて耳許まで這上つて来た。野村は今かうして自由に街を歩き廻つてゐる自分を考へると、解き放たれた、広々としたよろこびを覚え、大きな呼吸を幾度も続けざまにやつて見た。

夕暮だつた。四季のない街ではあるが、それでも店々には秋の飾りつけがしてあつた。太陽の落ちたばかりの街路は、まだ電光に荒されないで、薄闇が路地から忍び出て来た。

野村はふと立停つた。巨きなビルディングの横だつた。細い小路が建物の間を暗い裏町に抜けてゐる、その角に、彼は立つて、

「かういふ所でも蟋蟀がゐるだらうか?」

青空文庫の作品カード