有島 武郎
潮霧
南洋に醗酵して本州の東海岸を洗ひながら北に走る黒潮が、津輕の鼻から方向を變へて東に流れて行く。樺太の氷に閉されてゐた海の水が、寒い重々しい一脈の流れとなつて、根室釧路の沖をかすめて西南に突進する。而してこの二つの潮流の尅する所に濃霧が起こる。北人の云ふ潮霧とはそれだ。
六月のある日、陽のくれ/″\に室蘭を出て函館に向ふ汽船と云ふ程にもない小さな汽船があつた。
彼れはその甲板に立つてゐた。吹き落ちた西風の向ふに陽が沈む所だつた。駒ヶ嶽は雲に隱れて勿論見えない。禮文華峠の突角すら、魔女の髮のやうに亂れた初夏の雲の一部かと思はれる程朧ろである。陽は叢り立つて噛み付かうとする雲を光の鞭でたゝき分けながら沈んで行く。笞を受けた雲は眩むばかりの血潮を浴びる。餘つた血潮は怖れをなして飛び退いた無數の鱗雲を、黄に紅に紫に染める。
陽もやがて疲れて、叢雲の血煙を自分の身にも受けて燃え爛れた銅のやうになつた。堅く積み重つた雲の死骸の間を、斷末魔の苦悶にきり/\と獨樂のやうに舞ひながら沈んで行く。垂死の人が死に急ぐやうに陽は夜に急ぐ。彼れは息氣を飮んで夫れを見つめた。