レスコーフ ニコライ・セミョーノヴィチ

真珠の首飾り

※(ローマ数字1、1-13-21)

さる教養ある家庭で、友人たちがお茶のテーブルをかこみながら、文学談をやっていた。やがて仕組みとか筋とかいった話になる。なぜわが国では、そうした方面がだんだん貧弱でつまらなくなって行くのだろうと、口々に慨歎する。わたしはふっと思い出して、亡くなったピーセムスキイの一風変った意見を披露した。彼によると、そうした文学上の不振は、まず第一に鉄道がふえて来たことと関係がある、けだし鉄道は商業にとってこそ有益だが、文芸にはむしろ害をなす、というのである。

「今日の人間はずいぶん方々を旅行してまわるが、ただそれが手っとり早い暢気な旅なのだ」と、ピーセムスキイは言うのである、「だから別にこれという強烈な印象ものこらないし、とっくり観察しようにも、相手の物もなければ暇もないから、――つまり上っ滑りになってしまう。だから貧弱になるわけだ。ところが昔はモスクヴァからコストロマーまで、替馬なしで乗りとおすなり、乗合馬車で揺られて行くなり、宿場宿場で乗り換えて行くなりしてみれば、――とんだもうろう馭者にぶつかることもあろうし、図々しい相客に出くわすことも、はたごの亭主が悪党で、おさんどんが鼻もちのならぬ不潔もの、といった悲運に際会することもあるわけで、たんと色んな目にあえるというものである。おまけにとうとう堪忍ぶくろの緒が切れたとして(たとえばスープの中に何か変てこなものがはいっていたのでもいい――)、そこでそのおさんどんを怒鳴りつけてでもみたまえ。向うはその返礼に、十そう倍もの悪態を投げ返してくることになって、その印象たるやちっとやそっとでは抜け出られぬ深刻なものが

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