久生 十蘭

ノンシャラン道中記

一、鼻には鼻、耳には耳――現品取引。エークス鉱泉駅に約十分滞留したのち、汽車はブウルジェの湖畔の、水陸間一髪という際どいところを走っている。

車窓に蘆の葉がなびき、底石の青苔や、御遊泳中の魚族の鱗のいろも手にとるように見える。対岸、オオト・コムブの鬱蒼たる樅の林は、そのまま水に姿を映し、湖上の小舟は、いまやその林中に漕ぎいるのである。

汽車は水に浮び、舟は山に登る、この意外な環境に恐悦してしきりに喝采しているのは、登山用具で身をかためた男女二人の若い東洋人。幾百千とも知れぬ小魚が、くるくると光の渦を巻きながら魚紋を描いているのを指して、鮒じゃ、鯉じゃ、といい争っていると、

「はい、今日は」といいながら寄って来たのは、鉄縁眼鏡をかけた半白の老人。村役場の傭書記、小学校の理科の先生、――そういった実体な人物。

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