長谷川 時雨

水

趣味とは、眺めてゐるものと、觸はつて見るもの、觸れなければ堪能できないものと、心に養つてゐるものとがある。それを大づかみに一括して「趣味」といふのだらうが、自分に出來ないことを羨ましがるのも、いい意味での趣味だ。それは羨望には、ものねたみをふくむ憂ひはあるが、こんなのは甚だ罪が淺い――

といふのは、私には水泳が出來ないのだ。これは水ぎらひとか、恐怖とかいふのから出來ないのではなくて、生れた土地的のものからと、體質からとで、水練の機會がなかつたからだが、これは、一生を通じて損をした大きなものだと思ふ。

場處により、土地によると、別に財物がなくても修練の出來る業であり、また健康でさへあればほんの僅かの暇さへあれば、自由に樂しまれることであり、それによつて、夏の生々しさを、どれほどよろこびをもつて迎へることが出來るかわからない。わたしは健康でさへあればといつたが、その健康もまた、それによつて惠まれもする。

わたしのお友達で、水練に熟達してゐる人に、神近市子さんがある。神近さんは南國の海邊のお生れであり、拔手を切つて泳ぐ颯爽たる姿は、誰の目にも思ひうかべられるであらうが、も一人、平塚明子さんが、水の上の仙境を自由にされることは、あんまり知る人がない。

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