折口 信夫
戞々たり 車上の優人
まことに、人間の遭遇ほど、味なものはない。先代片岡仁左衛門を思ふ毎に、その感を深くする。淡々しい記憶が、年を経て愈濃やかにして快く、更に何か、清い悲しみに似たものを、まじへて来るやうな気がしてゐる。
役者なんぞに行き逢うて、あんな心はずみを覚えたと言ふことは、今におき、私にとつては、不思議に思はれる程である。年から謂つても、十四五―六の間、純と言へば純、だが上ついたと言へば、又少年らしくない、うは/\したところのあつた訣であらうか。世間に名の出た人にあうて、妙に其が吹聴したくなる。――あの肩の昂るやうな心持ち。我乍ら、あの軽浮さが、――信頼出来なくなるやうな、唆られる気味あひ――。その頃はまだ、我当と言うた役者に行き逢うて、此が所謂小松島屋といふ鍋蓋の紋を持つた役者だと感じたことが、既に、何だか、町の少年としても、早熟に過ぎた気がする。さう考へたゞけで、後々までも、私は赧くなつたことを覚えてゐる。その頃の私の、最多く見た芝居は、斎入市川右団治の舞台であつた。其と我当との、一座した期間があつて、それが又、大阪芝居の上では、相当記憶すべき時期となつて居る。だが其は、私が、しげ/\芝居に出入りしたよりは、一時期後であつて、主として、右団治が、角ノ芝居に拠ることになつた頃の事と思ふ。その前の数年間、中ノ芝居に毎年顔見世の手打ち芝居から続けてゐた右団治(斎入)、それに、荒五郎・正朝・琥珀郎・玉七などの一座を見て居たのである。この時期は、先代我童仁左衛門狂死の直後で、其に一部の責任あるもの、とせられてゐた斎入に対して、世間への義理からでも、悪意を表現して居ねばならぬ我当であつた。だから、一