折口 信夫

芝居の話

○此頃いくらか、芝居が嫌ひになれた様な気がする。性根場になつて、どうにもこらへられないで、とろ/\する事が多い。其でも尚芝居に行つて、廊下を歩く気持ちがよくて、やめられないと言ふ人もある。私もさうかと考へて見たが、廊下で知り人などに会ふのは、思つても愧しい。幸と、しげ/\出入しながら、芝居で、あんまり人に会うて、赧い顔をした事がない。私の知つた範囲には、芝居ぎらひが多いからであらう。ひよつとすると、誰にも知られずに居られるところだから、一番のう/\するのかも知れない。話をした事のない方で、YIさんなどには、ずゐぶん出くわした様だ。併し、其すら却て、静かな気分を助ける側にはたらく様だ。一度鹿児島のはと場で、国の町の電車などで、よく見かけた人に出あつた事があつた。其時の気持ちに似て居る。親代々の町人だからかも知れない。深い山や、離れ島にも行つて見たが、しん底おちついた気分になつた覚えがない。そんな静かな処で、さわだつ心が、芝居の桝に小さくなつて居ると、不思議におちついて来る。ひどい神経衰弱なのである。

○私の下にまだ二人、弟が居る。日曜日などには、このたつた二人の目下だつた弟を、一日中いぢめて泣かしたものだ。父はうるさがつて、いつからか、日曜日にはお小遣ひをくれて、千日前の「にはか」を見にやつてくれる癖が出来た。時には、其目的の為にわざ/\二人に泣き声たてる様に、し向けた事もあつた。父が「にはか」だけ自由に見させてくれた心持ちは、今でもわからない。其ほど厳格な人だつたのである。千日前には、向ひあはせに「鶴屋一座」と「宝楽、たにし一座」とが下足札をぴちや/\叩いて、客を喚んで居たもの

青空文庫の作品カード