堀 辰雄

眠れる人

その女が僕を見てあんまり親しげに微笑したので、僕はその女について行かずにゐられなかつた。もうすべてのものは眠つてゐた。ただ風だけが眼ざめてゐた。が、それとても、町中に散らばつてゐる紙屑をすら動かすほどのものではなかつた。それはむしろ空氣の流れと云つた方がいい。それが僕をうしろから押すのである。眼を閉ぢてそれに押されるままになりながら、僕ははげしい疲勞を感じてゐる。女は僕から十歩ばかり先に歩いて行くが、かの女もまた僕のやうに疲勞してゐるのだらうか、そしてやはり眼を閉ぢて空氣の流れに身をまかせてゐるのだらうか。かの女と僕とは夜よりも暗い町の中をいくつとなく通り過ぎる。僕はもう僕が何處を歩いてゐるのだか知ることが出來ない。そしてただこの夜の空氣の流れが僕たちに一つの方向を與へてゐるやうに思はれる。家々はすつかり閉されてゐる。たまに窓にあかりが點いてゐても、僕たちがそれに近づくと、あたかも僕たちを恐れるかのやうにそれは消されてしまふ。そのやうに二人きりで歩いてはゐたが、しかし女は僕があとからついて行くのを知つてゐるのかどうか一寸も解らない。それほど女はすべてのものに無頓着にゆつくりと歩いてゐる。そればかりではなく、僕までが自分のつけてゐるその女の事を忘れてしまふ瞬間がある。眠りがときどき僕たちの中を通り過ぎるのである。その度毎に僕は歩きながら眠る。しかし眠りが非常に靜かに僕の中を通り過ぎるので殆どそれに氣づかない位である。僕たちはある廣場に出る。突然、一臺の自動車が僕たちを追い越すためにサイレンを鳴らす。それが僕を眼ざめさせる。すると僕は、その瞬間まで殆ど感じてゐなかつた眠たさを急に感

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