堀 辰雄
風景
波止場の附近はいつものやうに、ぷんぷん酒臭い水夫や、忙しさうに陸揚してゐる人夫どもで一ぱいだつた。僕はさういふさなかを窮窟さうに歩くといふよりも、むしろ人氣のなささうなところを、ところを、と拾ひながら歩いてゐた。すると突然、僕は或るへんてこな一區域に迷ひ込んでしまつたのである。
しかし僕がそこをへんてこなところだなと思つたのは、次の瞬間、人が始めて風景といふものを見たやうな驚きに一變してゐた。
そこは實に靜かな場所だつたのである。どうも僕にはその位置の見當がはつきりつかないのだが、波止場をまごまごしてゐるうちに、いきなり迷ひ込んでしまつたのだから、むろん波止場の一部なのには違ひない。ただ僕に解つてゐることは、非常に低くなつて聞えてくる波止場のざわめきが、かへつてこの場所の靜かさを決定的にしてゐる位に、そこから離れてゐることだけだ。
その周りには、高い塀に取り圍まれた古ぼけた建物が、ただ一つきりしかなかつた。それはしかし僕の視野をきはめて狹くしてゐたのである。波止場はすつかりその蔭になつてしまつてゐて、そこから見えるのは殆んど海ばかりだつた。それがここを波止場の尖端のやうにも思はせるのである。そして僕の立つてゐるのはその建物の中庭らしい。中庭といつても、ここには一本の樹さへなく、ただ禿げた土の上にちよぼちよぼと雜草が生えてゐるばかりである。そして何の堤防らしいものもなしに、いきなり海に面してゐた。