堀 辰雄
心の仕事を
御手紙拜見しました。
ドゥイノの悲歌に就いての御質問の事、只今生憎手許に充分本がありませんので、御滿足の行くやうには御返事が出來かねますが、――第十の悲歌のあの冒頭の部分は、此の最後の悲歌の主題として考へられる、悲しみを過ぎつて本當の生に到達する「道」の探究へと我々を導いてゆくために、先づ、我々、地上の愛に充ちた者らにおける悲しみの位置といつたものをはつきりとさせてゐるのであります。
本當の人生への道は悲しみを過ぎりながら通つてゐる。その悲しみを浪費したり、その果てるのを欲したりしてはならない。そしてそれを大事にしなければならない。何故なら、すべてのものが死んで、我々が無限の生の新しい季節にはひつてゆくとき、我々に殘されるのはその悲しみだけだからである。現世ばかりでなく、さういつた死後の我々の永遠の住家としてまで、リルケは、人間の悲しみといふものを大事にしてゐる。
死と、悲しみと、子供や動物の無心と、――この三つのものをリルケが悲歌全篇にわたつて人生の重要な要素と考へてゐることは誰にも分かる位、屡※(二の字点、1-2-22)詩の前面に持ち出されて來てをりますが、さういつた要素をメタフィジカルに書かずに、常に詩人の體驗したものをもつてきて書く。それが此「悲歌」では、――