堀 辰雄
辻野久憲君
辻野君のこと、大へん悲しい。仕事の上でも惜しいことをしたと思ひます。辻野君のした仕事の大半は、飜譯だつたけれど、所謂飜譯家にありがちのよそよそしいところがちつとも無くて、いつも熱をもつて、全身的に、普通の人ならてんで齒も立たないやうなものにぶつかつて行つてゐました。だからその選擇した作品を見てゆくと、辻野君といふ人がよく解るやうです。
ヴァレリイ、ジィド、モオリアック、リヴィエェルとその作者を擧げて見ても、――さう、このリヴィエェルといふ人など、辻野君には一番しつくりしてゐたのぢやないかな。この人の「ランボオ論」など辻野君の飜譯の中でも最も印象ぶかい。リヴィエェルの、佛蘭西などの批評家にはめづらしい位に熱つぽい書きかたが、辻野君自身にも本當にぴつたりしてゐたのだらうと思ひます。その後、リヴィエェルとクロオデルの往復書翰も是非譯したいといつて、それは既に手をつけてゐたやうですが、とうとう完成されずにしまつたのは、返す返すも惜しい。かういふ辻野君を措いては、他にさういふ特殊なものを手がける人もちよつと居ないでせうから。
モオリアックを譯して「作品」に載せるとき、何がいいだらうと僕も相談を受けましたが、僕はあいにく「テレエズ・デケエルウ」と「癩者への接吻」しか讀んでゐなかつたけれど、どちらにもひどく感心してゐたので、躊躇なくその二つのうちならどつちでもいいだらうと答へましたが、まあ「テレエズ・デケエルウ」の方がいいかなと思つてゐたところ、辻野君は「癩者への接吻」の方を撰びました。勿論その方が短くて雜誌に載せるのに都合よかつたせゐもあつたのだらうけれど、それをしばらく問はないとすれば、