岡本 綺堂
五色蟹
一
わたしはさきに「山椒の魚」という短い探偵物語を紹介した。すると、読者の一人だというT君から手紙をよこして、自分もかつて旅行中にそれにやや似た事件に遭遇した経験をもっているから、何かの御参考までにその事実をありのままに御報告するといって、原稿紙約六十枚にわたる長い記事を送ってくれた。
T君の手紙には又こんなことが書き添えてあった。――わたしはまだ一度もあなたにお目にかかったことがありません。したがって何かよい加減のでたらめを書いて来たのではないかという御疑念があるかも知れません。この記事に何のいつわりもないことはわたしが、誓って保証します。わたしは唯あなたに対して、現在の世の中にもこんな奇怪な事実があるということを御報告すればよろしいのです。万一それを発表なさるようでしたら、どうかその場所の名や、関係者の名だけは、然るべき変名をお用いくださるようにお願い申して置きます。
あながち材料に窮しているためでもないが、この不思議な物語をわたしひとりの懐中にあたためて置くのに堪えられなくなって、わたしはその原稿に多少の添削を加えて、すぐに世の読者の前に発表することにした。但しT君の注文にしたがって、関係者の姓名だけは特に書き改めたことをはじめに断わっておく。場所は単に伊豆地方としておいた。伊豆の国には伊東、修善寺、熱海、伊豆山をはじめとして、名高い温泉場がたくさんあるから、そのうちの何処かであろうとよろしく御想像を願いたい。T君の名も仮りに遠泉君として置く。