平林 初之輔

鉄の規律

一

今から何年か前、詳しく言えば、千九百――年の夏のある日、午後八時頃ポーラー〔(通気性に富む上等の織物)〕の上着に白セル〔薄地の織物〕のズボンをつけ、新しいパナマをかぶって、顔にマスクをつけた、背の高い男が、銀座三丁目の常盤ビルディングの六階の一室へ、ふらりとはいってきた。

もう日はすっかり暮れて、華やかな電気の下を銀ブラのモガ〔モダン・ガールの略〕、モボ〔モダン・ボーイの略〕連が、目的のない夜の遊歩を享楽している時刻であった。

彼は、室の中へはいると、すぐ、ポケットから懐中電灯を取り出して、室内を注意ぶかくしらべまわした。大東京の雑踏の中心にそびえ立っている広壮なビルディングの一室としては、これはまた何たる見すぼらしい室内の光景であろう。まるで俄づくりの県会議員の選挙事務所のような、プロザイック〔(Prosaic =おもしろくなく、殺風景な)〕な眺めである。

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