田山 花袋・田山 録弥

くつは虫

種族が異つても、国が異つても、文化が異つても、矢張人間だから、考へることが似たり寄つたりである。それを思ふと、今更ながら最初にかへることが必要だといふ気がする。経文あつての仏法ではない。また哲学あつての思索ではない。もつと先の先にその縁り起つて来る原始的本体があるのである。それに注目せよ。

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華厳を読むと、いろいろと面白いことがあるが、先づ打たれるのは、雑多紛々の人生である。その雑多紛々の人生の記録である。そこには仏菩薩が無限にゐる。誰も彼も菩薩であると言つて好いくらゐに沢山に場に上つて来る。つまり盲目なる人生の河である。そこに文殊師利があらはれる。そしていろいろな菩薩の言葉や心持を統一する。即ち主観の発現である。しかし普賢菩薩(客観)の現はれて来るのは、まだまだぐつとあとである。さまざまの混乱と紛糾を画して、流石の文殊師利にも何うにもならないやうなすさまじい場景を幾つも幾つも展開してからである。それにしてもその普賢菩薩の出現して来た時の大きな場景を私はいつでもはつきり思ひ起した。

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