田山 花袋・田山 録弥
卓上語
心の手綱一たび弛めば、竟にはその身を亡ぼすに至る。これは普通誰も言ふことだが、作者の側にもそれを移して来ることが出来る。心に拠るものにして怪奇、荒誕に落ちざるものは稀である、怪奇、荒誕に落ちたるものにして猶まことの心を把持することは難い、心は縁り易くして達し難いものであることを知らなければならない。
心の偏つたのを何によつて牽制すべき? 曰く恋、曰く金、曰く物質、曰く平凡なる日常生活、由来物質と心とは相拠り相生ず、その一を欠くべからず。
心に捉へられたものは、一刻も早くそこから出て来ることを考へなければならない。何故なら、そこは大抵は天才の落ちて行く穽であるからである。
由来天才は浪費し、憧憬し、朶頤し、空想を食物にし、実を失つてその実を失へるを知らず、虚偽に住してその虚偽にあるを知らず、地獄に堕することを喜び、暗黒にあることを好み、戦慄し、分裂し、影なきに影を見、姿なきに姿を見る。竟に身を亡ぼすに至るを知らず、危いかな。