田山 花袋・田山 録弥
父親
一
多喜子は六歳の時に此処に来たことがあるさうであるけれども、さうした覚えは少しもなかつた。石段になつてゐるやうな坂の両側に宿屋だの土産物を売る店だのが混雑と並んでゐて、そのところところから温泉の町のしるしである湯気がぱつと白く夜の空気を隈取つた。
『不思議ね。ちつとも覚えてゐないわ』
『さう……』
田山 花袋・田山 録弥
一
多喜子は六歳の時に此処に来たことがあるさうであるけれども、さうした覚えは少しもなかつた。石段になつてゐるやうな坂の両側に宿屋だの土産物を売る店だのが混雑と並んでゐて、そのところところから温泉の町のしるしである湯気がぱつと白く夜の空気を隈取つた。
『不思議ね。ちつとも覚えてゐないわ』
『さう……』