薄田 泣菫
無学なお月様
野尻精一氏は奈良女子高等師範の校長である。東京にゐる頃にはさうも思はなかつたが、住むでみると奈良は景色がよく、景色がよくないところには定つて古蹟があつて、遊ぶには恰好な土地だなと野尻氏は思つた。それにつけて、かういふ結構な土地に来て、鹿のやうに柔和で、鹿のやうに尻つ尾の短い女学生を預つてゐる自分の身の幸福さを思ふらしかつた。
野尻氏は晩餐がすむと、毎晩のやうに奈良公園へ散歩に出た。ある晩の事、いつものやうに女子教育の事を考へながら(ニイチエだつたか、女をしつけるには鞭を忘れるなと言つたが、野尻氏は鞭らしいものを持つてゐなかつた。多分忘れてゐたのに相違ない)公園のなかをぶらぶらしてゐた。すると、いつの間にか黛ずんだ春日の杜にのつそりと大きな月があがつてゐた。
「や、月が出てゐる。ちやうど十五夜だな。」
と、立ちとまつて珈琲皿のやうにまん円く、おまけに珈琲皿のやうに冷たいお月様を見てゐるうち、野尻氏は何だか歌よみらしい気になつた。