高浜 虚子
落葉降る下にて
私は今或る温泉に来て居る。此の温泉には二十年程前に一度来たことがある。其れは或る大病をした揚句であつて、其の時は医者から一度見放された位であつたのが幸いに快方に向つて、其の恢復期を此の温泉で過ごしたのであつた。二十年程前といふとまだ私は二十を沢山越してゐなかつたので、私は早婚ではあつたが、其の頃はまだ乳呑児が一人ある位のものであつた。
其の頃私はこゝの温泉につかりながら心は歓喜に充ちてゐた。すんでの事で死ぬるのであつたのが命をとりとめた、といふ喜びは喩へるにものが無かつた。私は毎日何をするといふ事無く、唯ぼんやりと温泉につかつて、洋々たる春のやうな前途を自分で祝福してゐた。家庭には漸く此の頃片言交りに喋り出した子供を抱いて若い妻は私の帰るのを待つてゐたし、其の頃私のやりかけて居つた事業も予想したよりは都合よく運びかけてゐたので、其れも此の際一発展すべく私の帰京を待つてゐるやうな始末であつた。此の際半月や一月帰るのが遅れたところで家庭の方も仕事の方もさうたいした不都合があるといふでは無し、其れよりも十二分に健康を恢復して、今後素晴らしい活動をせなければならぬといふやうな、何事につけても前途にのみ希望を繋いだ心の張りを持つて悠悠と此の温泉に漬つてゐたことを私は稍々古い昔の事のやうに思ひ出すのである。十年や二十年昔の事でも、恰も昨日の事のやうに思ふといふのが世間の常であるが、私はどういふものだか、其れが十年や二十年よりも、もつと古い事のやうに思ふのである。今此の宿に来て見ると、矢張り温泉は昔の通りの温泉、庭の大木は昔の通りの大木、裏を流るゝ川は昔の通りの川、周囲を取囲んでゐる山も昔の