永井 荷風

書かでもの記

一

身をせめて深く懺悔するといふにもあらず、唯臆面もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称へて文を売り酒沽ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなほも古き机の抽斗の底、雨漏る押入の片隅に、もしや歓場二十年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書、さてはいづれお目もじの上とかく売女が無心の手紙もあらばと、反古さへ見れば鵜の目鷹の目。かくては紙屑拾もおそれをなすべし。

つらつらここにわが売文の由来を顧み尋るにわれ始めて小説の単行本といふもの出せしはわが友巴山人赤木君の経営せし美育社なり。数ふれば早十七年のむかしとなりぬ。巴山人は早稲田出身の文士にて漣山人門下の秀才なりしが明治三十四年同門の黒田湖山と相図り麹町三番町二七不動のほとりに居をかまへ文学書類の出版を企てき。その頃文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は紅葉露伴の門下たるにあらずんば殆どその述作を公にするの道なかりしかば、義侠の巴山人奮然意を決してまづわれら木曜会の気勢を揚げしめんがために貲を投じ美育社なるものを興し月刊雑誌『饒舌』を発行したり。『饒舌』は寸鉄かへつて人を殺すに足るとて三十二頁の小冊子とし、黒田湖山主筆となりて毎号巻頭に時事評論を執筆し生田葵山とわれとは小説を掲げ西村渚山は泰西名著の翻訳を金子紫草

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