永井 荷風

伝通院

われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。

もしそれが賑な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目戍るであろう。もしまたそれが見る影もない痩村の端れであったなら、われわれはかえって底知れぬ懐しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであろう。

進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。

十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。

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