和辻 哲郎
漱石の人物
私が漱石と直接に接触したのは、漱石晩年の満三個年の間だけである。しかしそのおかげで私は今でも生きた漱石を身近に感じることができる。漱石はその遺した全著作よりも大きい人物であった。その人物にいくらかでも触れ得たことを私は今でも幸福に感じている。
初めて早稲田南町の漱石山房を訪れたのは、大正二年の十一月ごろ、天気のよい木曜日の午後であったと思う。牛込柳町の電車停留場から、矢来下の方へ通じる広い通りを三、四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思われるくらいの狭い横町があって、先は少しだらだら坂になっていた。その坂を一町ほどのぼりつめた右側が漱石山房であった。門をはいると右手に庭の植え込みが見え、突き当たりが玄関であったが、玄関からは右へも左へも廊下が通じていて、左の廊下は茶の間の前へ出、右の廊下は書斎と客間の前へ出るようになっていた。ところで、この書斎と客間の部分は、和洋折衷と言ってもよほど風変わりの建て方で、私はほかに似寄った例を知らない。まず廊下であるが、板の張り方は日本風でありながら、外側にペンキ塗りの勾欄がついていて、すぐ庭へ下りることができないようになっていた。そうしてこういう廊下に南と東と北とを取り巻かれた書斎と客間は、廊下に向かって西洋風の扉や窓がついており、あとは壁に囲まれていた。だからガラス戸が引き込めてあると、廊下は露台のような感じになっていた。しかしそのガラス戸は、全然日本風の引き戸で、勾欄の外側へちょうど雨戸のように繰り出すことになっていたから、冬はこの廊下がサン・ルームのようになったであろう。漱石の作品にある『硝子戸の中』はそういう仕掛けのものであっ