和辻 哲郎
ベエトォフェンの面
一
人生が苦患の谷であることを私もまたしみじみと感じる。しかし私はそれによって生きる勇気を消されはしない。苦患のなかからのみ、真の幸福と歓喜は生まれ出る。
ある人は言うだろう。歓喜を産む苦患は真の苦患でない。苦患の形をした歓喜は真の歓喜でない。お前は苦患をも歓喜をも知らないのだ。お前の体験はそれほどに希薄だ。
しかし私は答える。歓喜を産む可能性のない苦患は「生きている人」にはあり得ない。苦患の色を帯びない歓喜は「生に触れない人」にのみあり得る。そのような苦患と歓喜とは、息をしている死人や腐った頽廃者などの特権だ。