北大路 魯山人

近作鉢の会に一言

料理は食器なしでは存在しないようです。

料理に対する食器の存在は人間に於ける着物の存在でしょう。着物なしでは人間が生活出来ないように、料理も食器なしでは独立することは出来ません。そう言えば食器は料理の着物だと言えましょう。

しからば料理に関心を持つ者は、料理の着物である食器に関心を持つ者は、料理の着物である食器に関心を持たぬ訳にはゆきますまい。古来人間が着物のこと衣裳のことに多大な関心を以てデザインが研究され、素地である織物、染色に驚くばかりの進歩が成し遂げられています。料理に於ける着物の食器も中国に於ては疾く明代、四、五百年前に既に完成を見ています。朝鮮では挙げて食器と言うほどのものはありませんが、御本手、樫手、やわらか手などいう鉢、高麗雲鶴手鉢、その他日本で抹茶碗に利用しているものに相当のものがあります。日本で四、五百年前すでに古瀬戸、古萩、古唐津、朝鮮唐津など当初から食器に出来たものが沢山あって、僅かに残されているものは今日大いに珍重され、千金万金と評価されて誇りがましき料理の着物として存在しています。なお個人作家としては仁清、乾山、木米等もっとも崇敬の的となり、好事家識者の間に重きをなしております。

しかしながら現今はと見渡しますと、実は私からは口はばったくて言いかねる所ですが、真になさけない有様です。個人作家という者には著しい天才家が生まれ出ないこと、今一つは我々が頭を下げて敬服するほどの熱誠家が皆無であること、こう申しますと、専門の陶家は固より、陶家を贔屓にしておられる方々などから憎悪の笞を以て打たれるのでありますが、私はその犠牲を払って憎悪をものともせず、その答を

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