徳田 秋声
挿話
一
道太が甥の辰之助と、兄の留守宅を出たのは、ちょうどその日の昼少し過ぎであった。彼は兄の病臥している山の事務所を引き揚げて、その時K市のステーションへ著いたばかりであったが、旅行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの一二枚の著替えしかもっていなかったところから、病気が長引くとみて、必要なものだけひと鞄東京の宅から送らせて、当分この町に滞在するつもりであったが、嫂も看護に行っていて、留守宅には女中が二人いるきりなので、どこぞほかに宿を取ろうという算段であった。兄の家では、大阪から見舞いに来ていた、××会社の重役である嫂の弟が、これも昨日山からおりて、今日帰るはずで立つ支度をしていた。
「ここもなかなか暑いね」道太は手廻りの小物のはいっているバスケットを辰之助にもってもらい、自分は革の袋を提げて、扇子を使いながら歩いていた。山では病室の次ぎの間に、彼は五日ばかりいた。道太の姉や従姉妹や姪や、そんな人たちが、次ぎ次ぎににK市から来て、山へ登ってきていたが、部屋が暑苦しいのと、事務所の人たちに迷惑をかけるのを恐れて、彼はK市で少しほっとしようと思って降りてきた。
「何しろ七月はばかに忙しい月で、すっかり頭脳をめちゃくちゃにしてしまったんで、少し休養したいと思って」