中原 中也
蜻蛉
会社の帰りに社長の宅を訪問した竹山は何時もになく遅く帰つて来た。
玄関先に夫らしい足音がすると、先刻から火鉢に凭つて時計ばかりみてゐた妻君は、忙しげに立ち上つて玄関に行つた。「まあね……」と彼女は三和土の上で靴を脱いでる夫の肩に手を置いて声だけを難儀らしくして云つた。――我国の女がまことに無表情に出来てゐることを知つてゐる者のその誰でもが今彼女の夫に対してしたことは、まあ女優か何かにしか思へなかつたのである。而もその夫といふのは、アメリカイズムの流行中心である映画会社にゐるにも関はらず、珍しくも太い横幅の長い口鬚をつけて、ゐて、女に甘えられるのが嫌だといふのではないが、そんな新式な甘え方を、調子よく受け取れるといふ格恰の男ではなかつた。
「まああたしまだ、仕度なんてしてやあしないわ、それに今晩はあれですもの……夜間(撮映)……ねえ。」彼女は語尾を揚げると共に男の顔を掬ひ上げるやうにしてみた。それからも――部屋の方へ上つて来る夫の後を追つかけながらやつぱり今のやうなことを自分自身聞いて貰はなくとも好いつてな風に繰返してゐた。
「あゝ、いや夜間のことはチヤンと承知だつたから、俺は途中でランチで済ませて来たんだ。」