中原 中也
分らないもの
一
「福岡から、お客様がみえました」――さういふ下女の取次ぎの言葉を聞いた時から、彼は脅えてゐなくちやならなかつた。
福岡の客つて、それは彼の内の親類端だつたんだが、非常なブルヂョアであるのだ。そしてその客である奥さんは、彼をよく知つてゐながら彼の父とも母とも一面識さへなかつたのだ。勿論彼の家に来るのも初めてだつた。で、それだけでも何だか、彼は客として来る者に対する責任を感じてゐた。だがそれで彼は脅えちやあゐない。その奥さんなるものの姪と彼とが恋仲であることを奥さんに知られてゐる彼だからなのである。
一寸挨拶を済ますと、彼は直ぐ引つ込んだ。