中原 中也
河上に呈する詩論
子供の時に、深く感じてゐたもの、――それを現はさうとして、あまりに散文的になるのを悲しむでゐたものが、今日、歌となつて実現する。
元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのまゝうたふに用うるといふことは、非常な困難であつて、その間の理論づけは可能でない。
大抵の詩人は、物語にゆくか感覚に堕する。
短歌が、ただ擦過するだけの謂はば哀感しか持たないのは、それを作す人にハーモニーがないからだ。彼は空間的、人事的である。短歌詩人は、せいぜい汎神論にまでしか行き得ない。人間のあの、最後の円転性、個にして全てなる無意識に持続する欣怡の情が彼にはあり得ぬ。彼を、私は今、「自然詩人」と呼ぶ。