永井 荷風
町中の月
灯火のつきはじめるころ、銀座尾張町の四辻で電車を降ると、夕方の澄みわたつた空は、真直な広い道路に遮られるものがないので、時々まんまるな月が見渡す建物の上に、少し黄ばんだ色をして、大きく浮んでゐるのを見ることがある。
時間と季節とによつて、月は低く三越の建物の横手に見えることもある。或はずつと高く歌舞伎座の上、或は猶高く、東京劇場の塔の上にかゝつてゐることもある。
街路の上はこの時間には、夏冬とも鉛色した塵埃に籠められ、一二町先は灯火の外何物も能くは見えないほど濛々としてゐる。その為でもあるか、街上の人通りを見ると、誰一人明月の昇りかけてゐるのに気のつくものはないらしい。
服部時計店の店硝子を後に、その欄干に倚りかゝつて、往徠の人を見てゐる男や女は幾人もあるが、それは友達か何かを待ち合してゐるものらしく、明月の次第に高く昇るのを見てゐるのではない。車留の信号の色が替るのを待ち兼ねて、通行の車と人とは、前後に列を乱して休みもなく走り動いてゐる。