島崎 藤村
灯火
飯島夫人――栄子は一切の事を放擲する思をした後で、子供を東京の家の方に残し、年をとつた女中のお鶴一人連れて、漸く目的とする療養地に着いた。箱根へ、熱海へと言つて夫や子供と一緒によく出掛けて行つた時には、唯無心に見て通り過ぎた相模の海岸にある小さな停車場、そこへ夫人はお鶴と二人ぎり汽車から降りた。
夫人はまだ若かつたが、子供は三人あつた。新橋を発つから汽車中言ひ暮して来たそれらの可愛いものからも、夫からも、彼女は隔絶れたところへ来た。
「母さん来たよ。」
と夫人は、斯の海岸に着いたことを子供に知らせるやうに、独り口の中で言つて見た。そして周囲を見廻して寂しさうに微笑んだ。