正岡 子規
画
○十年ほど前に僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者であった。その頃為山君と邦画洋画優劣論をやったが僕はなかなか負けたつもりではなかった。最後に為山君が日本画の丸い波は海の波でないという事を説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけにこの実地論を聞いて半ば驚き半ば感心した。殊に日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて非常に驚いた。けれども形似は絵の巧拙に拘らぬという論でもってその驚きを打ち消してしもうた。その後不折君と共に『小日本』に居るようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論を始めて居た。この時も僕は日本画崇拝であったからいう事が皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと、それは俗な木だという。達磨は雅であろうというと、達磨は俗だという。日本の甲冑は美術的であろうというと、西洋の甲冑の方が美術的だという、一々衝突するから、同じ人間の感情がそれほど違うものかと、余り不思議に思ってつくづくと考えた。その内ふと俳句と比較して見てから大に悟る所があった。俳句に富士山を入れると俗な句になりやすい、俳句に松の句もあるけれど松の句には俗なのが多くて、かえって冬木立の句に雅なのが多い、達磨なんかは俳句に入れると非常に厭味が出来る、これ位の事は前から知って居たのであるけれどそれを画の上に推し及ぼす事が出来なんだのである。俳句を知らぬ人が富士の句を見ると非常に嬉しがるのと、我々が富士の画を見ると何かなしに喜ぶのと、同じ事であるという事が分って、始