岡本 かの子

勝ずば

夜明けであった。隅田川以東に散在する材木堀の間に挟まれた小さな町々の家並みは、やがて孵化する雛を待つ牝鶏のように一夜の憩いから目醒めようとする人々を抱いて、じっと静まり返っていた。だが、政枝の家だけは混雑していた。それも隣近所に気付かれないように息を殺しての騒ぎだった。政枝が左手首を剃刀で切って自殺を計ったという騒ぎである。

姉の静子は医者を呼んだその足で隣町の若い叔母の多可子を呼びに廻った。かかりつけの医者が人力車に乗って駈けつけた。父親の寛三は血を吹く政枝の左手首を手拭いの上から握りしめていた。

「政枝、先生に手当をして貰え、な、判ったか」

父親は涙にうるんだ両眼を娘のそむけた横顔に近づけながら、おろおろ声で頼むように言い続けた。だが政枝は寝床の上に坐ったまま、歯を喰いしばり、身をかがめ、頻りに父親の手を振り離そうと争っている。若い医師は政枝が必死になって手当を拒み続けるので困り果てて、車夫に看護婦をつれて来るよう言いつけた。

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