斎藤 茂吉
『さびし』の伝統
一
短歌には形式上の約束があるために、新らしい言葉がなかなか入り難い。入れようとすると無理が出来て、その企の放棄せられることは、常に実作者のあひだに行はれてゐる事柄である。若しこれが約束に対して放肆になれば破調の歌となり自由律の歌になつてしまふのであるが、自由律を唱へる人々と雖、ときどき定型のやうなものを作つて見て、故郷を偲ぶごとき面持をしてゐる。
さういふ風であるから、短歌でその観照なり表現なりが伝統的になり易いのは、先づ理論よりも実際が示してゐるのである。万事が新機軸を出し変化を試みてゐるあひだに立つて、歌では、いまだに、『あしひきの』とか、『たまきはる』とか、『ひさかたの』とかいふ枕詞まで使つて歌を作つてゐる。
さういふことは時代に逆行するものだとして、伝統破壊を試みた人々は既に幾たりもゐた。明治新派和歌のうちで、与謝野氏等は、一時、『らむ』とか『けり』とかを使はぬことにして一首を纏めようと意図し、議論でもさう云ひ、また実行もしたものである。然るに、追々二たび元に帰つて、やはり、『らむ』とか『けり』とかを用ゐるやうになつた。歌の形式上の約束は、おのづからさういふ伝統を強ひるところがある。