泉 鏡花・泉 鏡太郎
番茶話
蛙
小石川傳通院には、(鳴かぬ蛙)の傳説がある。おなじ蛙の不思議は、確か諸國に言傳へらるゝと記憶する。大抵此には昔の名僧の話が伴つて居て、いづれも讀經の折、誦念の砌に、其の喧噪さを憎んで、聲を封じたと言ふのである。坊さんは偉い。蛙が居ても、騷がしいぞ、と申されて、鳴かせなかつたのである。其處へ行くと、今時の作家は恥しい――皆が然うではあるまいが――番町の私の居るあたりでは犬が吠えても蛙は鳴かない。一度だつて贅澤な叱言などは言はないばかりか、實は聞きたいのである。勿論叱言を言つたつて、蛙の方ではお約束の(面へ水)だらうけれど、仕事をして居る時の一寸合方にあつても可し、唄に……「池の蛙のひそ/\話、聞いて寢る夜の……」と言ふ寸法も惡くない。……一體大すきなのだが、些とも鳴かない。殆どひと聲も聞えないのである。又か、とむかしの名僧のやうに、お叱りさへなかつたら、こゝで、番町の七不思議とか稱へて、其の一つに數へたいくらゐである。が、何も珍しがる事はない。高臺だから此の邊には居ないのらしい。――以前、牛込の矢來の奧に居た頃は、彼處等も高臺で、蛙が鳴いても、たまに一つ二つに過ぎないのが、もの足りなくつて、御苦勞千萬、向島の三めぐりあたり、小梅の朧月と言ふのを、懷中ばかり春寒く痩腕を組みながら、それでものんきに歩いた事もあつたつけ。……最う恁う世の中がせゝつこましく、物價が騰貴したのでは、そんな馬鹿な眞似はして居られない。しかし此の時節のあの聲は、私は思ひ切れず好きである。處で――番町も下六の此邊だからと云つて、石の海月が踊り出したやうな、石燈籠の化けたやうな小旦那たちが皆無だと思はれない。