斎藤 茂吉
脱帽
一
もうそろそろ体に汗のにじみ出るころであつたから、五月を過ぎてゐたとおもふ。途中で買つた医学の古書をば重々と両脇にかかへて、維也納のシユテフアン寺のなかに入つて行つた。それは疲れた体を休め、汗をも収めるつもりであつたのだが、両脇に書物の包をかかへてゐるために、向うの祷卓のところまで行つて、それから帽子を脱がうとおもひ、寺の中のうすぐらい陰気な石の床上を歩いて行つた。いまだ卓までは十数歩もあらうかとおもはれたころに、ひとりの男がつかつかと来て、『帽子をおとりなさい』といふ刹那に僕の帽子をば床上におとした。
そのとき僕はどう思慮したか、殆ど思慮のいとまもなく小走に走って行つて、重い書物をば卓のうへに置いた。
それからむらむらと憤怒の心が起つて溜まらぬので、彼の男を二たび見つけて、何かの形で突かかつてやらねばならぬといふ気がした。